館長語録(相談者との対話)

「そうなりたい」と思ったら、そうなる方向に顔を向けて、そうなるような思考をして、そうなるような行動を始めなきゃ今のままだ。当たり前の事だがな。東京へ行こうと思ったら東京行きの列車に乗るんだ。東京へ行こうとして、大阪行きのグリーン車に乗ってもなんにもならん。

何かやろうとしたら、半分準備が出来たら始めるんだ。あとの半分はやりながら整えるか補強していけばいい。何かあった時、準備していなかった部分で助かることも多い。準備していなかった部分が命取りになるということもあるが、完璧に準備しようと思ったら5年や10年あっという間に過ぎてしまうぞ。旅行だってそうだろ?完璧に準備して行こうと思ったら、家一軒背負っていかなきゃいかんぞ。

「小さな事にこだる」「些細な事にこだわる」というのが短所だと勘違いしているやつが多いな。ものすごい長所なのにな。「小さな事にこだわらない」鈍感なやつ、「些細な事にこだわらない」鈍感なやつよりよっぽどましだと思わんか。

「自分は弱い」と芯から思っている者、「自分は才能がない」と芯から思っている者、そういう者が本当に大きくてやさしい人間になれる。自分に多少の自信を持っている者は、そのちゃちな思い上がりが、確実な成長の邪魔になる。

以前、柔道部の監督をやっていた時の選手(もういい大人になっているが)がきて、「今の仕事が向いていないようだから、あきらめて新しい仕事を考えている」と言う。だがな、向いている仕事に就いているような幸せなやつなんてごくわずかだぞ。みんな与えられた仕事を一生懸命やって、自分に向いたものにしていったのだ。それにあきらめるんならいつあきらめても別にかまわんが、問題は「自分は、あきらめなきゃいかんとこまでやったかどうか」を一度考えてみる事だぞ。

いつもポジティブな方がいいなんて誰が決めた。ポジティブになったほうがいい時はポジティブになりゃいいし、ネガティブになったほうがいいときはネガティブにならんといかん。車の運転と一緒だ。いつもは前を向いているが、後ろを見なきゃ危ない時もある。それにな、いつもポジティブでどんどんやっているやつは、案外無意識に他人を傷つけているぞ。

寝不足で寝れん?だったら起きとれ。寝れん、と言って悩むくらいなら「朝まで悩むか」と腹を決めた方が良い。つらいけど、そういう時はどっちみち寝れんのだから。

10分準備したやつと、60分準備したやつ。どちらにチャンスが多いかは明らかだな。スティーブジョブスも言っている。「準備を怠らないやつが一番怖い」と。

どんな人間でも、人と場所に恵まれれば、一気に成長するものだ。周りの人もそういう状態を作ってやらないかんわな。

「飽きる」ということは、自分に向いていないものが見つかったということで良い事なんだ。どんどんいろんなことに手を出して、どんどん飽きたらいい。そのうちに、かならず自分に向いたものがみつかる。

始めもなきゃ終わりもない悠久の時の流れの中で、人生の時間など針の先の砂粒のようなものだ。だが、砂粒のまま終わるよりは、「ダイヤのように磨いてやろう」と思った方が、無駄な努力かもしれんが人生が面白いわな。

今生きている、という事実が、お前の存在を必要としている。それにどう応えるかを考えるんだな。死ぬなんて応え方はありえない。

他人の道は自分の道じゃあない。人生はセパレートコースでオープンコースじゃない。近づく事はあっても交わる事はない。自分の道を行くしかないんだから焦らず行け。

「生きる」ということは「生きているように生きている」ということだ。眠っているように生きてるんなら、いっそ寝ちまえ。その方が健康にも良い。

何かをやろうとして迷いが出たら「やらなかったらどうなるか」を考えよ。そうすれば、たいてい「やってみようか」ということになる。

道は半信半疑で歩くものではない。どこへ行くか分からないような歩き方はするな。仕事だってそうだ。結果がどうでもいいような仕事の仕方はしてはいかん。

チームでやる思考をしよう。一人のできるやつを優遇するほど現代は甘くない。

人生山あり谷あり、なんて言うけどな、それは真面目に生きているやつの言う事だ。谷の次ぎに山が来るのは、谷の次ぎに山が来るような努力をしたやつだけだ。努力もせずダラダラやっていたら、谷ばかりの人生になるに決まっている。

「ほめてやれる失敗」はいっぱいあるが、「ほめてやれん成功」もいっぱいあるぞ。

運動能力の高い者が一日でマスターした技術と、運動能力の低い者が一ヶ月かかってマスターした技術を比べると、運動能力の低い者が一ヶ月かかってマスターした技術の方が安定感があり、妙味がある。

「もうこれまでだ」と勝手に限界を引くな。「できそうもない」と勝手に撤退するな。70才まではな。

小学生・中学生・高校生の自殺が昭和64年以後最多になったそうだ。どんなことがあったのか分からんから、込み入ったことは言えんが「二度と帰れんとこへ、急いで行かんでもええぞ」くらいは言ってやりたいな。

人生は一回だけだ。要するに一回戦で終わりという事だ。だから人生にシード選手はおらん。気持ちがいいな。

考えてみりゃ人生にアディショナルタイムもスクイズもコールドゲームもない。制限時間(寿命)前の終了も、制限時間過ぎのおまけ時間もない。生きてるうちに全力を尽くしておけ、ということだな。

「ひらめき」は偶然じゃない。プロセスに沿って一生懸命やった後に必ずくるものだ。

武道もスポーツも仕事も、普通にやっていれば「慣れ」で90%は出来るようになる。だからそれで十分だが、あとの10%を埋めて100%を目指すなら「考えながら、工夫しながら」やることだな。

やりたいことがない、とか、自分に向いたものがない、とか若いやつからよく聞くが、焦ったり落ち込んだりすることはない。「まだ見つかっていないだけ」のことだ。心配するな。必ず見つかる。

イチロー選手が言っていた。「やるなら、常に一番を目指してやるべきだ。精一杯頑張ったからこれでいい、というのは終わってから言う事だ。精一杯頑張ったから、とやる前に思ったら、取れる一番も取れなくなる」と。

人のせいにするな。親のせいにするな。社会のせいにするな。男なら全部自分のせいだ。

優先順位の決めかたは、「むつかしいものから」ではない。「やりがいのあるものから」でもない。「収穫の多いもの」からだ。

人生に焦りは禁物だと言うが、半分は本当だな。時間がかかるかも知れないが、必ず自分を生かす人や場所は見つかる。そこから次のステップをゆっくり考えればいい。

試合でも、稽古でも、仕事でも、常にパーフェクトを目指してやらなければいけない。ここではベストでも、あそこでは2番目ということは常にある。しかし、パーフェクトを越えるものはない。

ミスを恐れずにどんどん挑戦するべきだ、というのは半分正しくて半分ウソだ。「何でもやり直しがきく」と思って稽古や練習をしていると、小さなミスや同じミスを繰り返して、貴重な時間を大量になくしてしまう。やはり、やるならパーフェクトを目指せ、ということだな。

ただ、人生はやり直しは出来んが、出直しはいつでもできるわな。

人は「変わりたい」と思えば必ず変われる。しかし、一人では変われない。一人で変わろうとすると、焦っていじけていく危険がある。自分が変わるきっかけになる何かが必要で、それを求める努力は必要だな。

強い者が勝ち残るとは限らない。勝ち残った者が強いのだ。

失敗した者は信用を失わない。何もせず、失敗も成功もしない者が信用をなくす。

能力を上げようと思ったら「自分は、何が分かっていて、何が分かっていないか」を明確にして、恥をかくことだ。人が一生にかく恥の量はそう変わらない。だから早くたくさん恥をかき終わった方が良い。

優秀なアマチュアは実戦で通用しない。プロ並みも通用しない。通用するのはプロだけだ、と言った経営者がいた。

一所懸命にやった結果の失敗は、次のステージにリンクするが、いいかげんにやった結果の失敗は、どこにもリンクしようがない。当たり前だわな。

黙って自分のやれることをやっていれば、必ず自分の出番が来る。自分が主演の舞台が向こうから必ずくる。だから、今がどうあろうと投げたらいかん。

命一つ、身一つだから、自分の出来る事は決まってくる。だから生き方も腹を決めて臨んだ方が良い。俺は若い時から思って来た。「デジタルモードの世の中を、アナログモードで突っ走る」と。

相手のミスは、次ぎに自分がやったかもしれないミスだ。だからそれを教えてくれた相手に、また相手チームに感謝しなければいけない。すべての競争相手にリスペクトを忘れてはいけないのだ。

愛とか恋とかは冷えたり冷めたりするが、善意や好意は永遠に残る。

勝つ要素は流動的だ。その時の流れとか勢いとか思わぬ相手のミスとか偶然の要素が勝ちにつながってしまう時があるが、負けの要素は練習不足とか判断ミスとかでほとんど変わらない。だから「負けから学ぶ」というのは正しい。

居合道部の学生が「居合をやってなかったら、僕は何をやっていたんでしょうね」と言っていた。やることがある、ということは幸せな事だ。生きる力になる。

どんなにむつかしいゲームでも解決法はある。プログラミングされているからだ。人生はプログラミングされたものではないから、悩みや問題の解決法は一人一人違う。自分の頭で、自分なりの解決を、自分のペースで考えるしかない。

立ち姿・座り姿・進み方・退き方・刀の抜き方・斬り付け方など、自分の理想とする形をいつも心に描いているべきだ。それが基準になる。そうすれば、自分のどこが、基準以上か以下かがわかる。

あと何回家族と食事ができるのか、あと何回この道を通る事ができるのか、あと何回すきなことができるのか、あと何回この人といられるのか、など、あと何回これが出来るかを考えてみる。短い人生に、残された機会が案外少ない事に気がつけば、生きる事に真剣にならざるを得ない。

現在の自分が、ライバルに比べてどんなに弱くても、どんなに下手でも、奇跡の逆転はできる。できないのは「奇跡を起こそう」と思わないからだ。

自分の「こうなりたい」という形、「あこがれの形」、「理想の形」を心の中にしっかり持つ。それも「基準」になる。それを明確に描く事だ。武道だけじゃなく、仕事でも人生でも同じ。「基準」を明確にしておけば、今の自分は、基準に比べて、何が足りないのか、どの部分が弱いのか、どこを強化すればいいか、が明確になる。

「切れて美しい居合」「切れて正しい居合」「切れて強い居合」「切れて品格のある居合」というように、「切れて」が最初に来る。この順序を間違えると「刀踊り」になってしまう。

「仁而武(仁にして武)」。これは、人としての道を分かっていなければ武道を稽古する資格がないということだが、こう言い換えることもできる。「正義のない力は暴力に過ぎない」が「力のない正義は無力で存在できない」と。

 取り繕いでも良いから取り乱さない。

「死にたい」と言うやつが時々いるが、「死にたい」よりも「死んでもいい」という気持ちで生きることだ。

 覚えるのに1日かかった者と10日かかった者。覚えた事柄に代わりはないが10日間の苦労や焦りが人間を磨くわな。「うまいな」と「はっとさせられた」の差。覚えの良いやつはある意味不幸かもしれん。
 ウソはついてもええが、ウソをついてはいかん人を一人は持っとかなきゃいかん。

 狭い自分の生活の中だけに閉じこもっていたら小さな人間になってしまう、というのはたちの悪いウソだ。自分の生活空間の中だけで、自分の出来る事だけを懸命に磨いて超一流になる人はたくさんいる。子規だってそうだ。寝たまま5・7・5の俳句の中に無限の可能性を感得していた。

人生はつらい事の方が圧倒的に多いが、たまにいいことがあると、それがこれまでのつらいことを全部忘れさせてくれる。だからどんな悲しみやつらさに悩んでいても「いいことは必ずある」と信じる事だ。「いいこと」は思いがけない時に突然やってくるものだからだ。

「過去を振り返ることに何の意味もない」「過ぎた事をあれこれ考えるのに何の意味もない」と言う人がいる。それも本当だ。しかしな、人間はこの何の意味もない事をしたい時がある。それが次への元気をくれることもあるんだ。

「明日やろう。明日やろう」と言っていたらいつまでもできない、というのは半分くらいは本当だろう。だが「明日やろう。明日にまわそう」と普通に思える若さはいいものだな。80、90過ぎたやつには、こんなことは思えんからな。